ひとりで田んぼの中の畦道を歩いていると、後ろから誰かが声をかけた。

「どこへ行くんにゃ」

 振り返ると、清坊が虫取り網を担ぎ、横断線と呼ばれる村唯一の舗装路の上から、ぼくを見てにやにや笑っていた。後ろに同年代の子どもを二人、引き連れていた。

「産ヶ森にかむとのおるが、採りにつれていってやろうに」

 今日は虫取りで釣ろうという魂胆のようだが、行けばいい所、ひとつ年上の清坊たちに子分扱いされるだけなのは明白だった。

「ばあやんのうちにゃ」

 ぼくはそう言い捨てて、逃げたと思われない程度に足を速め、その場を離れようとした。

「逃げるんきゃい」清坊はいっそう嘲りの色を強めて、言った。

「お前ん親父も逃げつろやい。てえそうげえそう、お前だんの家は、逃げの早う出来ておる」

 ぼくは立ち止まった。これが初めてではなかったが、この日はなぜかひっかかるものがあった。

 もう一度振り向いて見ると、清坊は真っ黒に日焼けした顔にすでに勝ったも同然の笑みを浮かべて、腰に手を当て、こちらを見下ろしていた。

「ばあやんのうちに行かやならんのや」

 ぼくの声は、その時自分でも情けないくらいに、震えていた。

「ばあやん、ばあやん」清坊は腰を振って、おどけた節まわしでそう言った。

「ばあやんの垂れ乳、飲みやれやぁ」

 背後の子ども等も、そのまねをしながら、きゃあきゃあと囃したてた。

 イケナイ、と、ぼくは思った。でも、そう思った時には、いつも遅かった。

 次の瞬間、ぼくは麩菓子のように頼りない小さな拳を握り締め、自分より一回り大きな清坊めがけて踊りかかっていた。

 獣のような反撃に遭ったのは言うまでもない。

 ……勝どきとも哄笑ともつかない声が遠ざかっていった。口に入った田んぼの泥を吐きながら嗚咽する、ぼくを残して。  

泥だらけのままばあやんの家の庭に入っていくと、庭の隅の畑でネギを摘んでいたばあやんが、ひとめ見るなり言葉にならない声をあげて、よたよたと駆け寄ってきた。

「どうしたんにゃ、裕ちゃん」

 何とも説明できないでいると、ばあやんはぼくの手を引いて井戸のそばまで連れていった。

「べべを脱ぎやれや、ほれ、なあ」

 ばあやんはそんなことを言いながら、自らさっさとぼくの服を脱がし、洗い桶にぼくを立たせると、手押しポンプで水を汲み上げ始めた。

 井戸水は夏ゆえにいっそう冷たく、ぼくの悲しみの熱を冷ますようだった。

 ばあやんはぼくの祖母ではなく、正確にはぼくの祖父の姉にあたる人だった。小さな商家に嫁いだが子どもに恵まれず、やがてその商売も先細りとなるうちに亭主に先立たれ、当時は駄菓子をいくつか並べた店とも言えぬ店を、開けたり閉めたりして生活していた。

 駄菓子の中には、大小様々な飴に紐がついていて、その紐を束ねたものがあった。子どもらは小銭を払ってその紐の端を一本ずつ引き、大玉を引けば当り、という仕組みだ。

 ぼくが遊びに行くとばあやんは、大玉の飴の方をつまんで引き抜き、ぼくに呉れた。あまり客の来ない駄菓子屋だったからできたことかも知れない。ぼくがあまりの幸運に呆然としていると、ばあやんは、あーん、と口を開けてみせ、つられて開けたぼくの口に、その大玉を押し込んだ。

「裕ちゃん、こっちへ上がりい」

 まだ拭きかけで半分濡れたままのぼくを、ばあやんは座敷に招き入れた。

「これ、食べやれや」

 仏壇に供えてあったのだろう、少し線香の匂いのする栗餡の饅頭をぼくに手渡した。すっかり涙の引いたぼくは、饅頭の皮の端っこを、一口、齧り取った。

 

朝早くから仕事に出ている母が帰ってくるまで、ぼくは自分の時間をどう使うか、毎日考えなくてはならなかった。学校には行くには行っていたが、そこでぼくを取り巻く空気は必ずしも居心地の良いものではなかった。

 まして夏休みともなると、灼熱の日々はじんわりと孤独を焦がし続けた。たとえ水辺で遊んでいようと、周囲の大人たちの声や視線が、小さな火花のように背中に当るのが感じられた。

 父の事について、もちろんあからさまな中傷を浴びせる大人はいなかったが、一度自らの境遇に気づかされてしまった以上は、わずかなささやきや足音という形で周囲から寄せられる澱んだ感情のかたまりを、幼いとはいえ無視してしまう訳にはいかなかった。

 そんなぼくにとって、ばあやんの着物の匂いや、薄暗い仏間の湿った匂いが、母の膝以上に馴染む世界になってしまったのも、仕方のなかったことなのかもしれない。

「裕ちゃんは、赤旗の子孫やろが、きっと偉うなる」

 ばあやんは時々そう言って、仏壇の引出しから古い巻物を出して見せてくれた。それは戦死した祖父が受け継ぐべき家系図だった。平の何某から始まり祖父にまで至る、係累の名が記されているのだが、最後の数代だけが、鉛筆で書き足されている。

 今思えば、多分に贋物臭い代物だった。しかし、ばあやんの真剣な目は、幼いぼくには何の疑念も抱かせなかった。

「な、裕ちゃんも、大きゅうなりゃ、名前を書くんにゃでな」

 そう言われて、ぼくは無心に頷いていたのを記憶している。

 陽が傾きかけてきた頃、表で涼やかな鈴の音がした。

 何度か聞いたことのある、お遍路の鈴だと、すぐに判った。

「お遍路さんやで、ちょいと待ちやれや」

 ばあやんはそう言うと、座敷を這い出て、土間に米を取りにいった。

 ばあやんの家は、丁度四国遍路の通り道に面していた。前後の町が離れているため、自然と歩き遍路が足を止める。今でこそバスや自家用車で通過する巡礼が多いが、その頃はまだ歩いて巡る人も多く、ばあやんもごく当たり前に、米などを喜捨していたのだ。

 ばあやんはわずかな米の入った椀を手に、玄関のほうへ回っていった。座敷からは玄関は見えなかったが、何やらぼそぼそと話しているようだった。

 その時、椀が落ち、米粒の飛び散るような音が聞こえた。ぴしゃりと戸が閉められた。

 ぼくは、何事か、と緊張した。表では、ばあやんと誰か、たぶん巡礼のようだ、低い声で何やら言い争っているらしかった。

 こんな時、出ていっていいものかどうか、ぼくは逡巡した。

 イケナイ、イケナイ、とぼくの中でぼくは言った。しかし、いけないと思いながらも勝ち目のない戦いをしてしまうのが、ぼくの習い性なのかもしれない。

「ばあやん」

 ぼくはそう叫ぶと、サンダルをつっかけて玄関に走っていた。引き戸を開き、表に飛び出した。

 ばあやんは、横を向いて通りに立っていた。視線の先に、走り逃げていく白い遍路装束の男の後姿があった。

「ばあやん、どうしたんにゃ」

 ぼくは呼びかけた。

 ばあやんは無言で男の逃げた方角をじっと見ていたが、やがて何事もなかったかのように道路にしゃがみこみ、椀を手にとると、そこらじゅう散らばった米粒を、一粒ひとつぶ拾い集め始めた。

 いったい何があったのか、訳も判らないまま、ぼくはその横顔を見つめるしかなかった。

父の失踪の理由と状況を詳しく母から聞いたのは、もちろんその後、ぼくが人並みに迷いや過ちを経験し、いい年、と呼ばれるようになってからのことだ。

 父はあいかわらず音信不通だし、ずっとこのままでいいとは思えない。

 しかし、父にも父なりの事情があるはずだ。あせっても解決にはならない。

 父もぼくも、いずれ鉛筆書きで記される程度の生を送っているのだ。少々書き損じることもあるだろうし、例え書き損じても、いつでもたちまち書き直しできる。

 そう思えば、気楽なことこの上ない。

 やはりあの巡礼は、それなりに生の書き直しを試みようとした、父だったのではないだろうか。その途中、思わずばあやんの家を訪ねてしまったのではないだろうか。

亡くなる寸前に一度だけ、それをばあやんに問いただしてみたことがある。

「あれはお父さんやったんにゃろ」  
すでに寝たきりとなっていたばあやんは、しばらく黙っていたが、やがてぽつりと言った。
「呆けて、忘れたにぃ」

きっと、嘘に違いない。