「とにかく、俺は、お大師さんの声を聞くまでは、やめられねえんだ」
 自転車で四国巡礼を続けているというその老爺は、ひときわ大きな声で言った。
「お大師さんも、用事がなければ話し掛けてこねえよ」
 もう一人の老いたお遍路が、灰の延びた煙草をくわえたままで言い返した。
「考えてもみなよ。向こうは一人で何万人も相手してんだ。いちいち全部に訳もなく話し掛けてられやしねえよ。心配しなくても、用があったら、あっちから話し掛けてくっからさ」
「あ、そうか」
 言い返されたほうは、人懐こそうな眼をパチパチさせて、答えた。
「あんた、いいことを言ってくれたな。……ほんとに、いいことを言ってくれた」

 ふたりとも70歳は超えていた。
 総白髪の5分刈の頭、無精ひげと10円玉のように日焼けした顔の色は共通していて、それぞれの春秋によって刻まれた表情だけが異なっている。
 盆過ぎの午後とはいえ、南国の熱気は容赦がなかった。野宿を続ける中で知り合った二人は十分に汗臭かったが、互いに気にはならない様子だ。

「ほんとだよ」煙草の火を消すと、卓の上の駄菓子に手を伸ばした。
「俺は、死んだ親父に話し掛けられたことがあるんだ」

 

「親父が死んで、2年くらいしてからのことだよ。俺は、仕事、仕事の毎日で、その時も夜、仕事が終わって風呂に入り、炬燵で酒を飲んでたんだ」
 つまんだ煎餅を音を立てて食べ終えると、男は続けた。
「座ってる背中の、左後ろのほうだよ。誰かいるんだ。誰かが。
 ふっと振り向いて見てもだあれもいないんだけど、どうも誰かがそこにいる。
 俺は訊いたんだよ、『親父か?』って。
 そしたら親父の声で、『うん』って言うんだ」


「俺が『どうしたんだい、何か心配事でもあるんかい』って言ったら、親父はこう言ったんだ。
 『お光がなあ……』って。
 お光ってのは、親父の妹、俺のおばさんの事なんだけど、丁度その時入院してたんだよ。他に身寄りもなくってよ。だから『俺に面倒見てくれってことかい』って訊いたら、やっぱり『うん』って言うんだな。
 親父の話はそれきりだったけど、俺はそれから3年、仕事の合間を見ちゃあ病院に見舞いに通ってさ、自分の籍にも入れて。死んだ後は、うちの墓に祭ってあげたよ」

「そのあと、こういうこともあったさ。
 仕事で、横浜に行ったとき、お稲荷さんをどかさなきゃならなくなって、機械の来るのを待ってたんだけど、急いてるもんだから、そこに生えてた木を手で引っこ抜いたのさ。
 そしたらそれが御神木で。もろに大罰くらって、40日、入院だよ。退院しても、暫く飯が食えなくてね。ありゃあ、参った」

「とにかく俺は、喧嘩だなんだで無茶しちゃあ酒を飲み、飲んじゃあ失敗しで、悪循環もいいとこだったよ。お四国に来てるのも、それじゃあいけねえと思ってからだ」

 気がつけばさっきまでかまびすしかった蝉の声がふっつりと途絶え、頭上に咲く百日紅の花が僅かな風にそよいでいた。……

 老爺の宿願は、そののち叶えられたのであろうか。
 その答が、やがてお大師さんの口から、直接罪多い私のこの耳に、届けられる日が来るのかもしれない。